寺伝によると当寺はもともと道灌の築いた砦(稲付城とよばれる)の跡で、道灌の禅の師匠であった雲綱が、
非業の死を遂げた名将の菩堤を弔うためにこの地に草庵を結び、
道灌寺と名付けたのが起源で、
その年は永正元年(1504)であったとされています。
しかし、稲付城は徳川家康が江戸に移った時(1590)まで存在し、寺となったのはその後であり、
それは、おそらく寛永年中(1633〜42頃)に稲付出身の僧麟的(〜1642)が
草庵を結んだのがそのはじまりと思われます。
その後、道灌六世の孫太田資宗(1600〜1680)が先祖ゆかりの地を大事にして境内を整備し、
幕府やこの地の領主東叡山寛永寺にとりなして、寺域を除地(免税地)とすることを認められました。
その折、資宗は山号と寺号をそれぞれ道灌と父道真の号、静勝軒および自得軒の名をとって現在のように改めました。
明暦元年(1655)のことです。
その後、太田家では代々静勝寺を援助し、
また、道灌の250回忌(享保20年、1735)、300回忌(天明5年、1785)、
350回忌(天保6年、1835)には家中を挙げて静勝寺で法要を営んでいます。
その折々に記念の品を奉納したり、諸堂の建立や修復が行われました。
その最大の記念物が太田道灌の像であり、それを祀る影堂(道灌堂)です。
寺は明治以降太田家との縁も切れて一時さびれましたが、
昭和に入ってから付近の都市化とともに復興し、檀家もふえ、
諸堂も整備されて今日に至っています。
なお、寺域一帯は現在、東京都旧跡の指定をうけております。
武蔵野台地の端、奥州へ向かう街道に面し、水陸交通の要衝として栄えた岩渕宿を臨むこの地は、
砦や館を構えるには最適の地でした。
資料の伝えるところでは道灌の主君扇谷上杉氏の砦としてその名が見え、
また道灌の孫資高、その子康資の二代にわたり岩渕の領主としてこの地に館を構えました。
その後、小田原北条氏の砦となりました(当時の堀が発掘されています)が、家康が江戸に移った後、
その使命を終え廃城となったようです。
もと当山六世風全が元禄時代に造ったものを、
九世法雲が正徳年間に改彫したとされています。
境内東側の53段の石段を上がった正面にある道灌堂(享保20年、250回忌の際の建築)に、
厨子(350回忌に作られた)に収めて祀られています。
剃髪、道服姿で立膝をし、手に払子(ほっす)をもち、傍らに脇刀が置いてあります。
高さ約60センチ、如何にも武将らしい凛々しい風ぼうで、
かって東京府庁舎前に銅像を造るときモデルとされたそうです。
寺では道灌の命日7月26日に開扉します。
当時の本尊。元禄七年(1694)再興とある。
40センチほどの座像で脇侍として、文殊菩薩、普賢菩薩を従えています。
寺伝によると越の秦澄の作といわれ、道灌の守り本尊であったとされています。
ふっくらとしたお顔のすぐれた彫刻ですが、実際には江戸中期の作品と推定されます。
精巧な彫刻の施された台座の上に置かれた15センチほどの坐像で、金色の光背をもち、
脇侍として四天王中の二尊(増長天と毘沙門天)を従えています。
この三尊は秘仏で、ほかに前立の観音像があった由ですが、現在は失われています。
江戸時代には独立した観音堂に祀られていました。
白浪作。静勝寺にちなみ白浪先生より「勝龍」と名付けて頂きました。
亀ヶ池弁才天ともよばれ、寺の背後(西北)にあった
亀ヶ池から出現したと伝えられています。
やはり江戸中期の作品と推定されます。
八譬の坐像で高さ約25センチ、
現在本堂西側の弁財堂(もと観音堂のあった場所)に祀られています。
なお、池は明治まで灌漑用溜池として利用されていましたが、明治末年埋立てられました。
跡地は現在弁天通とよばれる商店街で、その一角に寺の弁才天の分祠があります。
寺には重要文書として以下二点のほか、除地や検地に関係する書状、土地証文類、
交割帳(住所交替に伴う財産引渡し明細)、過去帳などがあります。
また、道灌の年会法要に因んで奉納された記念品として、
次のものが保存されています。
なお、道灌公木像は平成元年11月、
また検地絵図その他の静勝寺古文書は平成5年10月に、
それぞれ北区有形文化財に指定されました。